昭和42年03月15日 朝の御理解



 信心の喜びというものは、人情からは生まれないということを思うんですけれども。それを咋日ほど痛感したことはなかった。本当にこの、信心をもって、何を頂きたいと、または、願うか願わなければならないかということは、信心によって生まれてくる、いや、信心でなかならければ預けない。いわゆる、妙賀である。喜びの妙である。湧いて来るような喜びである。
 そういう喜びに浸らして貰え、頂ける事が信心させて頂く者の喜びとさせて貰わなければならん。それを求めていく真に有難いと。そういう心におかげがあると仰るのでございますから、そういう妙賀を求めての信心でなかならければならないと思う。それに人情を使う。そすと心の中に喜びが湧いてこうとする、それを確かに人問心ですね。それを喜びを抑えるというのか、希薄な薄いものになってしまって行かん。
 咋日ここ二、三日、今日と明日が屋移りでございますけれども、屋移りの前に、ここ二、三日の間に、あちらに運ばして頂いておる、沢山、荷造りしておる、その各部屋部屋に、収めなければならないものを、皆に荷造りさせて、あちらに送り込むんでおりましたから、それを整理しておかないと、今日の、いわば、どさくさと言うか。何もかにも、どんどん、あちらに運ばして頂くということになったら。
 何が何やら、どこにあるやら分からないようになってくるだろうと、こう私心配したもんですから。今日の、屋移り前に収めるところに収めさせて貰い。一応、箱は開けさせてしもうて、という気持ちでおりますところに、ちょうど、渡辺先生が、福岡の、参って見えられました。ちょうど、二時頃からだったでしょうか。前の晩に、繁男さんにも、その事を言うておりましたものですから。
 これは繁男さん関係の、いうなら私のいわゆる大事なものを、いろんな物が沢山頂いております。16年間の間にようこんなに集まったものだと思うぐらいに、様々集まっております。咋日遅くまでかかって、もう本当に部屋から部屋へあっち行ったりこっち行ったり、あれはどこにあったかと、捜しながら歩いたりするだけでも、たいした道則になるのですよね広いもんですから。
 もう私も、疲れ切ってしまってから、もうへとへとになってしまいましたが。まぁ片付けとかにゃと言うので、秋永先生も一生懸命でしたが、けれども渡辺先生言われるんですね。よう本当にこれだけの部屋にこれだけの物が、いわゆる場所を得所を得ておるというか。ほんなら調度品ひとつでもですね。ぴったりそのあの人なかなかのセンスの持主ですし、なかなかのムード家ですから。
 本当に、渡辺先生好みに、、各部屋がですね。勿体ないぐらいに、それぞれの調度品は調度品、美術品は美術品と、置物なら置物という様なところに、収まったんです。それが本当に、まあ、ようこれだけの物が、揃いも揃い、集まった事も集まったもんだなぁと、私も思うたが、渡辺先生が、しきりに関心しておられるんですね。本当にまあ言うならば、一部屋一部屋が、一分もすきのないように、きちっと出来たんです。
 それはおかげで有り難いことなんですけれども。もう夕べから寒気がする。咋日は菊栄会の方達が。恐らく今朝まで掛っているでしょうけれど。御神殿が見事に出来上がりました。壁が綺麗に貼って御座いますから、あれを咋日はそれこそ菊栄会の方達、それに秋永先生を含めて、もう禊ですね潔斎、お水をかかってから白衣に替えましてね。下着からなんから変えて、御神殿の中に入ってからのお掃除が咋日あっとるんです。
 私は、ちょうど、十二時ごろにお夜食を持って参りました。勿論、すぐに帰りましたけれども、そらもう、大変なことでございますね。おそらく今朝まで済んでおらんかもしれません。もう夜通しかかって、皆さんが、御用なさっておられます。帰ってから休ませて頂いたんですが、今朝、起きてみたら、どっこい、もう顔が、こんなに腫れてるんですね。やっぱりその、人間心というのはですね。
 私共も、すぐその、なんかある意味で徹底しなければ出来ない性分なんだもんですからね。徹底してやってしまうものですから、ぼうけるち言う訳でしょうね。のぼせるという訳です。それでこの、歯は痛い。歯は腫れて気分の悪いこと、おびただしい事。本当にあれだけの、見事な部屋に、あれだけの立派な調度品を、あれだけ、それこそ場所を得、所を得てから、そのことが有り難いんですけどもです。
 本当に信心とはですね。あるがままに、なるがままにと仰るが、本当にあるがままになるがままにの中からでなからなければ、妙賀というのは預けないのかとさえ、私は今朝から思いました。あんまり、物がふんだんにあったり、あんまり、おかげを頂き過ぎますとですね。ついつい、より良いようにとこう思う訳なんですね。ここには、いっちょ、これがあったならと。なければ、なあんともないんですけれどもね。
 だけどその、あるもんですから。まだまだ本当は全部出してある訳じゃないですけども。あらかた片付いたんですが。そういうその、人情の中からは、体が疲れるばっかりでですね。喜びというものは、確かに消えていくということ。だけではない、体にまで、こうして堪えるということ。お互いが、不如意な時、あれも思わんならん。これも思うようにならないといった様な時にです。
 本気で妙賀の味わいと言うものを味わして貰い、頂かして頂き身に付けさせて頂いておりませんとですね、本当にそういう結果になりかねません。これは本当に私ももう少しまあ出来るだけの事は出来たんですから、良いようなもんですけれどももう少し本当に神ながらに、動かなければこちらの体の方がもてんと、私は思うたんですが。もう私共の体は喜びをもって支えておるという、これが本当なんです私の体は。
 信心が無かったらもしこの信心の喜びが無かったら。もう私はとうにそのどこか体がへこたれてしまうのではないかとさえ思います。それにちょっとそうした人間心を。つまらん人間心という訳でもないのにです。本当にこれが様々なつまらん人間心なんか使ったら、もう愈々いけないだろうと思いますですね。人間心からは喜びは生まれない。どこまでもあるがままになるがままにと言った様な中に。
 私は妙賀というものは得られるものだと。そういう妙賀を土台にしてです、どれほどのおかげを受けても頂いても、それがあるがままになるがままにで任せきれるところまで、私の信心を私自身進めておかなければならないなぁ。これから又もっともっと愈々おかげを受けていくであろう。そのおかげを受けていくために、かえって頭を痛めたりのぼせて、こんなに歯を腫らかしたりする様なことがあってはですね。いよいよ、神様に対しても、相すまん。皆さんに対して相すまんというとになる。
 どうぞ皆さん、人間心というのは、そんなに、妙賀を、ですから、妙賀を頂きたいというても人間心ばかり使うたらですね、やはり、妙賀は得られませんですね。得られましても、それが、希薄なものになってしまうんです。どうでもひとつ神ながらな、本当の意味でですよね。椛目で時々使いますね。武士の真をしといてから、まあ、神ながらじゃろうと。なんとかなると言った、それじゃないですね。どこまでも、神情ひとつでおかげを頂いていけれる信心を、身に付けていかなければならないという風に思いました。
   どうぞ。